【語学留学から5年で永住権を取得した私の人生】人生の分岐点

語学留学から5年で永住権を取得した私の人生

ニューヨークで直面した人生の選択肢

皆さん、こんにちは。大澄紅希です。第3回目を迎える『語学留学から5年で永住権を取得した私の人生』。今回は、私が永住権を取得するきっかけとなった「人生の分岐点」についてお話したいと思います。

前回の第2回目では、「永住権を取得できた2つの要因」についてお話しました。その際にもお伝えしましたが、私自身、永住権を取得できた要因は、

1.人や社会のために本気で励み続けることができた
2.直観のおもむくままにリスクを恐れず行動し続けることができた

だと感じています。この部分がブレなかったからこそ、結果として永住権を取得することができました。では、私がどのようにしてアメリカへの道を切り開いたかです。そこには、ニューヨークで直面した人生の分岐点が大きく関係しています。

大学を一年休学してニューヨークへ

私は大学1年生のとき、それまでサッカーしかしてこなかった自分自身に対して早くも嫌気がさしてしまいます。サッカー一筋だった人生にも関わらず、プロを目指せるレベルには到底及ばず、結果として、勉強もサッカーも中途半端などうしようもない自分の人生。。。

自分は今まで何をしていたんだ。果たしてこんな自分に将来はあるのか。

これからサッカーを頑張っていこうと思っていた大学入学当初から、こんなことを考えては、自問自答する日々を過ごしていました。

そんなある日、テレビで海外の紹介がされているのを目にします。(国は覚えいません)そのとき、直観的に「これだ」と感じました。特に、これといって秀でた才能があるわけでもなかった私ですので、人と違うことをすることで、周囲と差をつける必要があると感じていました。そんな私にとって、海外に出るという選択肢は、まさに絶好のオプションでした。

意思が固まってからは、とにかく行動にうつしました。まずは名古屋まで留学エージェントの方に会いにいき、留学に関する基本的な情報を入手しました。大まかな留学費用も把握できましたので、その後はひたすら牛丼屋にてアルバイトをし、資金調達に励みました。アルバイトは深夜帯(夜の10時から朝の6時まで)の方が時給が高かったため、長いときには夕方の6時から朝の6時まで働いたこともあります。その結果、多いときには月に30万円弱ほど報酬を得ることができました。そのようにして、なんとか留学費用の半分以上を貯め、残りは両親に頭を下げ、大学の3年後期から1年休学し、ニューヨークへの語学留学を実現させました。

言葉の壁に苦しんだ日々

お金を貯めることに必死だった私は、ろくに英語の勉強をせずに渡米します。結果的に、ニューヨークに到着した日にタクシーの運転手にぼったくられ、語学学校でのプレースメントテスト(クラス分けテスト)では散々な結果に終わり、一番下のレベルのクラスから留学生活をスタートさせることとなりました。

英語を軽視していた私に、後悔している時間はありませんでした。私の語学力の乏しさは生活に支障をきたすレベルでしたので、一日も早くそこを改善する必要がありました。それと同時に、授業がアルファベットからスタートするレベルでしたので、その環境に身を置いてしまっている状況に屈辱感すら覚え、それが当時の私を鼓舞する最大のモチベーションにもなっていました。

それからというものの、授業を終えたあとは毎日部屋に引きこもり、フルハウス(アメリカで人気を博したテレビドラマ)を英語音声/英語字幕で何度も視聴し、字幕を全てノートに書き出しては、わからない単語や熟語を英英辞書で調べ習得する、という作業をひたすら繰り返していました。部屋から出る際には、英語が堪能だったスウェーデン人のルームメートと行動を共にし、フルハウスで習ったフレーズや単語を積極的に使うよう心掛けました。

結果的に、私の語学力は徐々に改善され、3ヶ月ほどで”最低限通じるレベル”にまで向上させることができました。留学当初は日本人の友達ともなるべく距離を置くようにしていましたので、精神的に苦痛を感じることも多々ありましたが、今となっては、あの経験があったからこそより頑張ることができたと思っています。

そのときは突然訪れた

そんなこんなであっという間に月日が経っていったある日のこと。私はいつも通り語学学校の授業を終え、キャンパス内にある寮内の自分の部屋に戻っていました。そのときです。私は、同時期に語学学校に入学した日本人の女の子(以下Aさん)にたまたま遭遇します。階段の踊り場でした。Aさんは、千葉県の国立大学を休学して留学にきており、ニューヨークでは語学力の向上に加え就職活動もしていた、行動力溢れる女性でした。語学学校のクラスも私よりはるか上のレベルにおり、私の中ではとにかく「真面目で聡明なバイタリティ溢れる女性」という印象でした。彼女とは語学学校の同期であり同い年でもあったため、いい距離感を保ちながら、たまに会っては近況報告をし合うという関係でいました。

その日も、たわいもない会話から始まり、互いのニュースをキャッチアップしていました。そして、なんとなく話題がAさんのニューヨークでの就職活動状況に移ったときでした。

Aさん:「予想以上に就職活動がしんどくて。現地で働いている日本人の方々の集まりに何度か顔を出してきたけど、これ以上一人であの空気に耐えられる自信がなくて。紅希君、一緒に来てくれない?紅希君が一緒に来てくれるなら私は今後も頑張って顔を出そうと思うけど、今後も一人となると、もう通うのを辞めようと思う。」

私:「・・・えっ?」

Aさん曰く、就職活動の一環としてニューヨークの日系コミュニティに何度か顔を出してきたものの、バリバリ現地で働いている方々(ニューヨークで起業し成功されている方もいれば、日本の大手広告代理店の米国法人経営を担っている方もいたとのこと)はレベルが違い過ぎることから圧倒されてしまい、一人ではもう行きたくなくなってしまったとのことでした。そんなときにタイミングよく私を見かけたため、試しに誘ってみたのだそうです。

私はこのとき、相当悩みました。なぜなら、私のなかで、

「男として女性にかっこいい姿を見せたい」

「語学学校の緩い環境から日本の重苦しい社会にまた逆戻りなんて絶対に無理!」

という葛藤があったからです。そのときは確実に、「絶対に無理!」という方が私のなかには強くあったと思います。ただ心のどこかで、「逃げちゃいけない」という思いもありました。悩みに悩んだあげく、私は「一緒に行く」という決断を下します。今思うと、私の今があるのは、このときの決断があったからだと強く確信しています。あそこで「行かない」という決断を下していたら、私は今頃、別の価値観と共に永住権を取得することもなく、日本で働いていたものと思います。あの瞬間はまさに、私の人生の中での大きな分岐点でした。ここから私の留学生活は、大きな変化を遂げていったのです。では次回は、そんな私の”留学生活第2章”についてお話したいと思います。

本日もお読みいただきありがとうございました。では次回もお楽しみに!

Crimsope代表 大澄紅希

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